
父が言った。
「タクシー券、30枚くらい残ってるんだよな。3月で終わりらしい」
1枚500円だから、全部で15000円分ほどになる。
ただ、この券というのは、高齢者にとって、おいそれと使い切れるものでもない。
地方行政だとよくある、車を手放した高齢者のための制度だが、そもそもあまり外出しない人だと、年度末にまとめて残っていたりする。
父もそのタイプだ。
ちょうど今度、父の通院に付き添う予定がある。
私は電車で、ある地方の駅に11時ごろ着く。
父が独りで住む家からその駅までは、タクシーで10分くらい。
そこで提案してみた。
「タクシー券あるなら、タクシーで駅まで来てくれる?」
高齢者用タクシー券は、子どもの私が一人では使えない。
父と一緒なら、駅で合流して、そのまま一緒に家に戻れる。
ただ、その日の予定は少し変わっている。
まず家に戻る。
そして父の行きつけの店でランチ。
そのあと、またタクシーを呼んで病院へ行く。
病院の前にはだいたいタクシーがいるので、帰りの足はあまり心配していない。
問題は、そのあとだ。
もし時間とタクシー券に余裕があれば、
少し寄り道をしてみようという話になった。
行き先は、昔住んでいた町のあたり。
私が子どものころ住んでいた場所だ。
最後に行ったのは、たぶん30年前。
さすがに家そのものは、もう無いかもしれない。
別の家が建っているか、空き地になっている可能性もある。
でも、なにか記憶に残っているものがあるかもしれない。
あの曲がり角とか、
小さな橋とか、
かすかな何か。
私にとっては記憶があるかどうか怪しい程度だが、
当時40代だった父にとっては、思い出深い場所だろう。
そういう場所を通ると、人は急に思い出す。
「ここに○○屋があった」
「この道、毎日通ったな」
「この辺は昔、畑だった」
そんな話が出てくるかもしれない。
父との相談方法は、昭和的だ。
父は耳が遠い。
電話はあまり得意ではない。
なので、急ぎのちょっとした相談はFAXでやり取りになることがある。
いまどきFAXで作戦会議というのも、なかなか味がある。
「駅には11時に着きます。タクシー券があるなら、タクシーで駅まで来てくれる?」
そんな内容だ。
運が良ければ、忘れたころに返事が来る。
通院の付き添いだけだと、ただの用事になる。
でも、
・駅で合流
・家に戻る
・行きつけの店で昼ごはん
・病院
・時間があれば昔の町を少し回る
こうなると、ちょっとした外出になる。
しかも、その費用の多くは、今回、父のタクシー券でまかなえる。
制度の正しい使い方と言えば、たぶんこういうことなのだろうと勝手に思っている。
さて、30年前の家はまだ残っているだろうか。
それとも、すっかり別の景色になっているだろうか。
いずれにしても、その町を父と一緒に通るのは、
たぶん悪くない時間になると思う。
